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図録概要 (bauhaus100japan)

収録各論文の解説
開校100周年を記念し日本のバウハウス研究を代表する執筆陣の論文全16編を収録。

01.バウハウスと近代の「総合」- bauen の諸理念をたどって 長田健一

「すべての造形活動の最終目標は建築である」というグロピウスの宣言文冒頭の文章に示された「総合」への意志こそはバウハウスの活動の推進力でした。その根幹にある概念「総合」の歴史的な背景は何か、さらに、それがバウハウス14年の歴史の中でどのように推移したのかを初期から中期、後期へと辿りながら多角的に解明します。

首都大学東京客員教授( 現在: 東京都立大学客員教授)
巻頭論文1 pp.10-13

02.バウハウス教育の変遷の中に見えるもの 杣田佳穂

バウハウスの教育の根幹にある基礎教育の誕生と推移を探り、さらに、基礎教育と工房教育という教育システムの基本的枠組みは保持しながらも社会の動きそして歴代校長のビジョンとともに変容していったバウハウスの教育のあり方を照らし出します。とりわけ、グロピウス、マイヤー、ミース・ファン・デル・ローエという校長ごとにその変容を分析しバウハウス教育の本質に深く迫ります。

ミサワバウハウスコレクション学芸員、「きたれ、バウハウス」展監修者
巻頭論文2. pp.14-19

03.バウハウス物語 宮島久雄

バウハウスの成り立ちを第一次世界大戦前のドイツ工作連盟の運動にまで遡りさらにナチス時代、戦後東独時代を含む近年に至るまでの歴史的経緯を解明します。「国立」バウハウスの意味についての鋭い分析も含まれます。

京都工芸繊維大学教授、京都大学総合人間学研究科教授を経て国立国際美術館館長(2005年退任)、高松市美術館前館長、日本版バウハウス叢書編集委員
論集03. pp.138-140

04.バウハウス設立のミステリー 利光 功

第一次世界大戦敗戦直後、新生ヴァイマール共和国の誕生という歴史的激動の中に生まれたバウハウスの設立には未だ解明すべき点が残されています。設立の日付はどうなのか、新進の建築家、グロピウスが設立者となったのは何故なのか、誰がグロピウスを主宰(学長)に任命したのか、三つの謎に迫ります。

前大分県立芸術文化短期大学理事長、日本版バウハウス叢書編集委員
論集04. pp.141-144

05.バウハウスへの道~グロピウスとその時代背景~ 貞包博幸

グロピウスによるバウハウス設立宣言に掲げられた「総合の理念」、さらに1923年に明確化された「芸術と技術 新たな統一」という指針、これらの思想の源泉を19世紀末からドイツ工作連盟の活動、第一次世界大戦直前のグロピウスの建築理念を振り返りながら跡付けます。グロピウスの革新的理念が、歴史的運動の新たな展開として示されています。

大分県立芸術文化短期大学名誉教授、日本版バウハウス叢書編集委員
論集05. pp.145-148

06.バウハウス ー普遍性と全体性への渇望・あるいは新たな貧困ー  柏木 博

開校100年を迎えたバウハウスを今日どのように評価すべきなのでしょうか。20世紀のさまざまな評論家がバウハウスにコメントし解釈を行なっています…フランコ・モレッティ、マルスラン・ブレーネ、ピーター・ゲイ、ヴァルター・ベンヤミン…彼らの解釈の分析を通して、バウハウスが目指した普遍性、総合性の今日的なあり方について論じます。

デザイン評論家/ 武蔵野美術大学名誉教授
論集06. pp.149-152

07. 建築学生コンラート・ピュシェルをとおしてみるマイヤー主導のバウハウス建築教育 冨田英夫

建築家ハンネス・マイヤーは、1927年、建築科設立のために招聘されさらに1928年から2代目校長としてバウハウスを率いますが、政治的偏向を糾弾されて1930年に解任されます。こうした経緯のためかバウハウスでの彼の業績はややもすれば過小評価されてきました。本論考では、彼の建築教育の本質をマイヤー時代の建築学生の履修内容を踏まえて分析して解明し、今日に繋がる科学的な建築教育の推進者としてのマイヤーの姿を明らかにして再評価しています。

九州産業大学建築都市工学部准教授
論集05. pp.153-155

08.オスカー・シュレンマー の《三つ組のバレエ》とバウハウス 木村理恵子

舞台は空間における身体を伴った総合的造形活動としてバウハウス設立当初からそのカリキュラムに位置付けられていました。舞台工房の主役となったマイスター、オスカー・シュレンマー の代表作に《三つ組のバレエ》があります。その成立過程の詳細な分析を中心に、バウハウスとの出会いの中で彼が舞台工房においていかなる展開を見せたのか、また、彼が論じた「人間」という授業がどのような意義をもっていたのかを跡づけます。

栃木県立美術館学芸員
論集06. pp.156-159

09.メディアの発見 ー統合の場としての写真の実験ー 深川雅文

写真はバウハウスの活動のなかでどのような意義をもっていたのでしょうか? 写真学科が正式に設立されるのは1929年と遅いのですが、1923年のモホイ=ナジ着任によって火がついた写真熱は、先生、生徒、それぞれの専門の枠を超えて広まり、多様な写真の実験が展開されます。その根底には、新たな造形的素材としての「光」の発見とバウハウスが目指す統合のビジョンがありました。

ュレーター/ クリティック 、「きたれ、バウハウス」展監修者
論集07. pp.160-163

10. 1920-30年代の日本美術におけるバウハウス「攻防」 長谷川 新

1920年代から30年代にかけてバウハウスは日本の美術界にどのような影響を及ぼしたのでしょうか? その状況を当時の洋画画家、日本画家、前衛芸術家、工芸家、建築家たちの制作の実践とそれに対する反応を辿ることで浮き彫りにします。たとえば、バウハウスのマイスター、カンディンスキーの重要な概念「シュパンヌング」(緊張関係)が日本の美術界にいかに受容されたのか、バウハウスにも由来をもつ「構成」という概念を巡って芸術家たちがいかに反応したのか。バウハウスに触れた芸術家たちが、たんに妄信的に受容するといった態度ではなく、反発、矛盾、混乱を感じながらも創造力の契機として接し反応した多様な姿が見えてきます。

インディペンデントキュレーター
論集08. pp.164-167

11.大阪におけるバウハウスの理論による教育の広まりー大阪市立工芸高校を中心にー 下村朝香

バウハウスに留学した日本人学生たちは、帰国後、バウハウス教育の日本への紹介に大きな役割を果たしました。その影響は、彼らが活動拠点としていた東京を中心に広まりますが、大阪でもバウハウスの教育理念を取り入れた教育が行われていました。その舞台となったのは大阪市立工芸高校です。同校教師の山口正城と山田外夫が中心となってバウハウスの理論の研究を深め、それを元にして実際に教育にあたりました。本論文は、大阪におけるバウハウスの系譜となる造形教育の誕生とならびにその展開を解明します。

西宮市大谷記念美術館学芸員
論集09. pp.168-171

12. 水谷武彦のbauhaus/ バウハウスのMUTI 長田謙一

2019年はバウハウス開校100年の年であるとともにそこに学んだ最初の日本人学生、水谷武彦(1869-1969)の没後50年でもありました(在学:1927年~1929年)。在学中、水谷の造形感覚はバウハウス内部でも高く評価されバウハウス叢書や機関誌バウハウスで紹介されるほどでした。帰国後、日本へのバウハウスとその教育の紹介に多大な貢献をしましたが、山脇巌に比べると戦中戦後を通じてその業績が振り返られるのが少なかったことは否めません。本論は、水谷の業績をバウハウス入学前後から戦後に至るまで解明しその実像に迫ります。

首都大学東京客員教授( 現在: 東京都立大学客員教授)
論集10. pp.172-177

13.山脇巖の建築の仕事 梅宮弘光

東京美術学校で建築を修めた後、妻、道子とともにバウハウスに入学した山脇巌は、予備課程修了後に念願の建築科で学びました(在学: 1930年~1932年)。帰国後、バウハウスの動きと教育を日本に紹介するとともに、建築家としての活動を本格化させます。帰国後最初に手がけたのは「診療所をもつM博士の住宅」と「M氏のアトリエ」(三岸好太郎アトリエ)でした(いずれも1934年)。本論考は、建築家としての山脇巌の仕事の全体像を巌が手がけた建築を1920年代から1960年代までに渡り詳細に跡付けることで解明します。

近代建築史/ 神戸大学大学院教授
論集11. pp.178-184

14.山脇巌の写真について 深川雅文

一生を通じて建築家として肩書きを貫いたた山脇巌ですが、1980年代にバウハウスの写真への関心が高まる中で彼の残したバウハウス時代の写真が国際的に高く評価されるようになりました。山脇巌の写真の仕事をその発端から紐解き、バウハウスの写真家としての姿を描き、山脇巌の名を世界に知らしめたフォトモンタージュ《バウハウスへの打撃》までの飛躍を辿ります。

キュレーター/ クリティック 「きたれ、バウハウス」展監修者
論集12. pp.185-186

15. 山脇道子のバウハウス 杣田佳穂

バウハウス留学を熱望した夫、山脇(藤田)巌とともに、結婚直後にドイツに渡り一緒に入学した山脇道子には美術教育も実制作の経験もありませんでした。にもかかわらず、予備課程で学ぶうちにその才能を開花させ織物工房に進み優れた作品を残しています。帰国直後、その成果を展覧会で発表し一躍、脚光を浴びました。また、バウハウスの活動とそこでの学びの内容を巌とともに日本に伝えました。本論考は、山脇道子のバウハウス人としての足跡をその発端から戦後にいたるまで詳細に跡付け、彼女にとってバウハウスとは何であったのかについて考察し解明します。

ミサワ バウハウス コレクション学芸員、「きたれ、バウハウス」展監修者
論集13. pp.187-191

16.ベルリンのバウハウスラー、大野玉枝 常見美紀子

バウハウスで学んだ日本人学生は3名という見方が久しく定着していましたが実はもう一人存在しました。デッサウからベルリンに移転して再開されたバウハウス(1932-1933)の終末期に在籍し織物工房で学んだ大野玉枝です。入学して半年もたたずにナチスの圧力を受けてバウハウスは閉校となります。混乱した状況のなかでの短期間の学びでしたが、バウハウスでの体験は帰国後の大野の活動の中に息づいていました。4人目の日本人バウハウス学生、大野玉枝の生い立ちからバウハウスに至る経緯、戦中戦後の作家活動まで全体像を浮き彫りにする論考です。山脇巌・道子夫妻との交流についても詳述されています。

デザイン史家/ 元京都女子大学教授
論集14. pp.178-184

翻訳集
「翻訳集」にはバウハウスに関する基本的な原典論文三本の翻訳を収録。

(1) バウハウス宣言/ ヴァイマール国立バウハウスの基本計画 ヴァルター・グロピウス 1919

「すべての造形活動の最終目標は建築である」に始まる歴史的な「バウハウス宣言」(cat.no.001.p.23)とそれに続く、「ヴァイマール国立バウハウス の基本計画」の全文翻訳です。ファイニンガーが描いた大聖堂の図版が表紙を飾るパンフレットの見開き左側に「バウハウス宣言」それに続いて「基本計画」が印刷されています。基本計画の採用についてはこうあります。「年齢、性別にかかわりなく、マイスター会議によって、基礎教育が十分であるとみなされる健全な者は、場所のゆるす限り、すべて入学することができる」
図録 翻訳集: pp.198-199 訳: 深川雅文 (「きたれ、バウハウス 」展監修者)

(2) 国立バウハウスの理念と形成 ヴァルター・グロピウス 1923

バウハウス設立4年目の1923年にそれまでの同校の活動を総括するとともに新たな方向性を指し示す一大イベントとして「バウハウス展」が開催される。本論文はその展覧会のカタログ(cat.no.229, p.104)の冒頭論文として掲載されており、「芸術と技術 新たな統一」という新方針を明確にしたグロピウスによる、バウハウスの理念の背景にある世界観そして活動の方向性を詳述した重要論文です。
図録 翻訳集: pp.200-2007 訳: 深川雅文 (「きたれ、バウハウス 」展監修者)

(3) 写真は光の造形である ラースロー・モホイ=ナジ

若きマイスター、モホイ=ナジの着任は、バウハウスに写真への熱狂をもたらしました。写真の新たな造形的な可能性を実践的かつ理論的に推し進めたモホイ=ナジは、バウハウス装飾 第8巻『絵画、写真、映画』で進むべき方向性を示しました。本論文は、彼の写真に関するビジョンを「写真は光の造形である」というタイトルで明快に示しています。機関誌『バウハウス』第2巻第1号(1928)に収録されています(cat.no.3-5,p.24)。
図録 翻訳集: pp.208-2011 訳: 深川雅文 (「きたれ、バウハウス 」展監修者)

資料編
図録の最後のパートはバウハウスに関連する資料を収録しています。
1. バウハウス年表  深川雅文 編 資料編 pp.214-217
2.作家バイオグラフィー 執筆者: 川谷承子、杣田佳穂、高橋麻帆、橘 美貴、深川雅文、星野立子、牧野裕二 資料 pp.218-229
3.バウハウス文献集 深川雅文 編 資料編. pp.230-233
4.作品リスト 資料編 pp.234-261